他のメンバーと折り合いをつけられる

 「他のメンバーと折り合いをつけられる」が成り立つならば、極端に言えば「私と仲良く出来なくとも」大丈夫です(もちろん「私と仲良くできた方が良いことは確かです」)。なぜなら「私と仲良く出来る集団」と繋がることによって、私と繋がれるからです。
 仲良くといっても、「仲良しこよし」ではありません。我々の目指しているクラスの姿を一言で言えば、「良い職場」なんです。教師人生をある程度やれば、様々な職場を経験するでしょう。その中で、「いい職場だったな~」と思い起こす職場を思い起こしてください。様々な先生がそこにいたと思います。それなりに協力して、一つの方向性を共有していたと思います。でも、みんなみんな全員が一つの方向性を共有していたとは限りません。な~んも仕事をしない人もいたのではないでしょうか?それほどでもなくても、相対的に仕事をしていない人は必ずいたと思います。一緒に仕事をしている人であっても、腹の中では「ウマの合わないやつ」と思っていた人はいたのではないでしょうか?尊敬している人、よく一緒に飲みに行った人であっても、「あの部分はイヤだな~」と思っているところがあったのではないでしょうか?我々が目指しているクラスは、そんなクラスなんです。だって、考えてみてください、 30年前の青春ドラマで描かれているような、みんなみんな仲良しなんていう職場なんてあり得ます?人間は十人十色、ウマが合うのも、ウマが合わないのもあって自然です。それなのに、絶対に実現できるはず無い、みんなみんな仲良しなんかを目指していたら、気が変になってしまいます。
 それでは、そんなウマの合わないやつがいる職場を、なんで「いい職場だったな~」と思い起こすのでしょうか?それは、その職場において自己実現できたからに他なりません。そして、それが成り立つために必要な、「自己実現と職場の目標が一致する」、「自己実現のもっとも強力な手段である仲間と有機的に繋がり得た」という条件が成立したからだと思います。
 我々の目指すべきクラスにおいて、「あいつはきにいらね~」と陰口が出てもいいんです。ただ大人社会のルールと同じように、それなりの礼儀をわきまえた関係を維持できればいいんです。自分から見て「仕事が出来ないやつ」と思える人がいてもいいんです。人間、完全無欠の無能な人なんてそういません。だから大人社会では、そいつの能力・特徴をふまえてつきあえばいいんです(いわゆるバカとハサミは使いよう)。自分から見て「仕事が出来ないやつ」と思える人からは、逆に、自分は「仕事が出来ないやつ」と思えるのかもしれません。しかし、その人も自分の能力・特徴をふまえてつきあえばいいんです。
 でも、ウマが合わないやつがいてもいいですが、ウマが合わないやつが少ない方が、自己実現に有利であることは自明の理です。また、仕事が出来ないやつがいてもいいですが、仕事が出来ないやつが少ない方が、自己実現に有利であることは自明の理です。

 

教師という仕事に憧れと誇りを持つ

 イギリスの劇作家にバーナード・ショーという人がいます。彼の言葉に「就職できれば人生の悩みは半分解決する」という言葉があります。実感としても正しいように思います。なにはさておき、食べることと、寝ることの確保は基本です。就職すれば、それが確保できます。また、就職すれば、その職業における人生設計が定まります。例えば、○○歳までに○○を行い、○○歳には○○になり・・という目標が定まります。就職すると言うことは、選択の幅が狭まることですが、それは、悩まなくなるということを意味しています。つまり、職業選択とは、その人の価値観・人生観が端的に現れるものです。我々が集団としてまとまるために、最低限、この価値観を共有したいと思います。従って、「私は教師になるつもりはありません」という方は、所属をお断り致しております。

 

二つが成り立てば

 同じ価値観・人生観を共にする仲間と仲良くできれば、何が出来るでしょう?それが「学術的にも、実践的にも高い研究を達成し、卒業・修了後の教師人生を過ごす指針を得る」ことなんです。
 我々は学術的にも、実践的にも高い研究を達成しています。それが何故出来るかといえば、子どもたち・教師を徹底的に見て、心に響く現象を質的・量的に丹念に分析するという、とてつもなく当たり前のことをやっているからです。それを達成するに必要な能力は、人間の本能に根ざしていると考えています。具体的には、素晴らしいものを素晴らしいと感じる能力、いいものと悪いものを分ける能力です。高等数学、難しげな文献ではありません。
  もちろん、学術的研究に高めるためには、高等数学、難しげな文献も必要です。それを文献で勉強しようと思ったら大変です。想像してください。新しく買った携帯電話・ビデオデッキの使い方をマニュアルで学ぶのと、それを使い慣れている人から教えてもらえるのと、どちらが簡単ですか?天と地ほどの差があります。それに、研究を進めるためには、「秘伝」というものが必ずあります。必ずしも、「秘密」に しようとしているわけではないのですが、文字にしがたい、いわく言い難いものというものがあります。それを知ると知らないでは、完成するまでの時間・労力、そして完成した結果の質に大きな差があります。
 様々な秘伝がありますが、私の操り方はどんな本にも書いていないけど、とても大事な秘伝です。例えば、私は「なぜ、そんなことを私に聞くの?」と言います。それに恐れをなして相談しないのは愚の骨頂です。私は何も考えずに聞いてくる質問、依存的な質問に関しては上記の反応をします。しかし、その人なりに一生懸命に考え、分からないことを整理し、相談しているならば、ちゃんと答えます。いや、一生懸命に考えて、「降参です」と言えば、論点が整理されていなくてもちゃんと話し合います。その他、西川はどんなおだてにのって、どういう風に説明すれば納得するかなど特性があります。それによって気持ちよく私は踊らされますし、結果として皆さんの役に立ちます。でも、繰り返しますが、こんな事は口伝しかありえません。
 つまり、西川研究室の力とは、研究室集団の力に裏打ちされているから強いのです。その研究室集団の力は、「他のメンバーと仲良くできる」、「教師という仕事に憧れと誇りを持つ」という二つに由来しています。

 

望むもの

 「他のメンバーと仲良くできる」、「教師という仕事に憧れと誇りを持つ」は何によって評価できるでしょうか?それは、「どれだけ研究室にいて、どれだけ他のメンバーと雑談しているか」で評価できます。具体的には、私がふらっと研究室に行ったときに、居るか居ないか、そして、茶話室で馬鹿話をしているかいないかで私に分かります。
  こう書くと、「居なければいないのか?」とか「そんなことを強いるのか?」とか言われそうですね。よく職場の飲み会の幹事の人に「それは強制ですか?」と聞く人がいますよね。
 現在、インターネット等で仕事をする人が増えています。確かに、研究の多くは自宅で出来ます。そして必要なとき職場に行けば、「その人」の仕事は出来ます。しかし、想像してください。その人が仕事に行き詰まったとき、どうするでしょうか?インターネット等で相談できます。でも、文字に出来ないことは多いものです。面と向かって話すしか方法がない場合もあります。いや、何を話すでもなく、馬鹿話をするだけでも気が晴れ、乗り越えられるものです。でも、そうする相手が職場にいなかったらどうでしょうか?逆に、あなたが職場にいなかったなら、他のメンバーは誰に相談すればいいのでしょうか? 
 想像してください。どの職場でも、家庭等の個人的な理由でさっさといなくなる人がいます。もちろん、誰でも個人的な理由でいなくなる場合があります。だから、誰もが認め合って、理解し合ってフォローします。ところが、それが「ず~っと」続く人がいるものです。そういう人がいるとどんな問題が生じるでしょうか?「その人」の仕事さえやらないという論外な人のではなく、「その人」の仕事はちゃんとやる人を想像してください。
 第一に会議・話し合いの時間を設けるのが大変になります。結果として、意思疎通が計れなくなります。第二に、「ちょっとした仕事」を頼めなくなります。結果として、その人以外の人に負担 が集中します。そういう人が少数の場合は、問題ありません。頭のいい人であれば、別な機会に埋め合わせることをやります。結果として帳尻が合います。ところが、そういう人だらけだったらどんなことが起こるでしょうか?
 巨大な負担がごく少数の人に集中し、その人が負担感を感じます。そうすると多くの場合、その人はSOSをメンバーに発します。そのSOSはハッキリとしたものです。 表情にも表れるでしょう、そぶりにも現れるでしょう。それでもためなら、口頭、メール、掲示板で「はっきり」とSOSを出します。もちろん、大人ですから「助けて~」とか「○○のバカ野郎~」とは言いませんし、書きません。でも、大変だということがハッキリと分かるSOSを出します。 しかし、周りの人はそれに気づきません。それに気づかないのは二つの理由しかありません。第一にはそれを感じないほど、物理的にいない。第二に、そのSOSを知っているのに、無意識で気づかないふりをする。簡単に言えば「まあ何とかなるわ」とか「たいしたこと無い」とか「他の人がやるだろう」です。 結果として、聞き流す、掲示板・メールに無反応という行動になります。 負担感を感じ、まわりの人間がサポートしない場合、負担が集中する人はどんな行動をするでしょう。それに関してはHさんの研究が示しています。
 負担が集中した人は管理職(教師)に個別に相談に来ます。ただし、負担感を感じての相談には特徴があります。第一に、他のメンバーと相談した形跡が見られない。第二に、問題の原因を個人的な問題としてとらえ、システムの問題として捉えない。そして、次に起こるのは仕事の分離です。つまり、自分の仕事の限界を明確にしたがります。つまり、「私はここまでやればいいんでしょ」、「それは誰の仕事?」という発言に繋がります。最終的には集団の崩壊が起こります。
 ただし、その相談をする人、仕事を分離したがる人が悪いのではありません。そうせざるを得ない状態にまで無神経でいた周りのメンバー(特に教師)の責任なんです。 我々は関係に着目します。問題が生じた時、その原因のように見える学習者や教師がいます。しかし、我々は、その学習者・教師の個人的な問題とはとらえません。その学習者・教師のおかれた場によって、「させられている」姿ととらえています。我々は「犯人探し」をしているのではなく、場を変化させることによって教育改善を目指しています。その場を変える責任を負っているのは教師である私です。そして、私が出来る最大のことは、上記の構造をメンバーに意識化することです。全メンバーが上記を意識し、お互いが少しずつ意識し「続ける」ならば、常にいられないメンバーが多くなっても集団は維持できます。 つまり、このメモを皆さんによんでもらう意味は、その意識化のためです。
  私の考える最高のクラスとは「良き職場」です。よき職場の上司が望む以上のことを望みません。今やっている行動が、職場(校長ではなく、同僚にです)で認められるかを判断してください。私が望むのは、第一に、「他のメンバーと仲良くできる」なんです。皆さんの行動を私が納得できるか否かが重要なのではなく、他のメンバーが納得できるか否かが重要なんです。 あなたご自身が「納得してもらっている」と誤解しているかも知れません。しかし、納得しているか、否かは、私にはハッキリと分かります。メンバーの中で納得されているのならば、研究の質は高いはずです。ましてや、一人だけ追い込まれた相談・仕事の分離が起こるわけありません。 そして、それがあなた自身が判断できる程度は、「いる」必要があります。
 「職場にいなくても、あなたの仕事は出来ます」でも、「職場にいなければ、他の人の仕事は出来ません」、そして結果として、「あなたの仕事も出来なく」なります。そして、「私の仕事さえ出来ればいい」という方は、我々の仲間ではありません。きつい言い方ですが、そういう 方は「あなたの仕事」だけさえすればいい研究室(職場)に所属すればいいことです。私は、それを認めます。ただ、そういう研究室(職場)で得られるものは、それに見合ったものしかありません。個人の力なんてたかが知れています。逆に言えば、集団の力を活かせば、素晴らしいことが出来ます。皆さんが西川研究室で学ぼうとしている「『学び合い』」を、学習者の立場から実感する場と積極的に考えて欲しいと願っています。 脅かされまくっているのに西川研究室に入ろうとする皆さんは、西川研究室が目指していることに対する確信犯だと信じています。従って、理解してくれることを信じて疑いません。


追伸 上記の関係、構造を根本的に解決する方法は、大所帯になることです。私は西川研究室の学生・院生の総数の適正規模は1学年15人程度(つまり2学年で30人)と考えています。おそらく私以外は馬鹿げたことだと一笑に付されるでしょう。でも、集団が大きくなろうと、なるまいと、やらねばならない仕事はあまり変わりません。集団が大きくなれば、一人一人の負担は小さくなります。そして、一人一人の特質が生きる場面も多くなります。そして、一人一人がウマが合う人に会える確率も高くなります。ただし、そういうことが成り立つのは有機的に集団が結びついたときのみです。つまり、「他のメンバーと折り合いをつけることが出来る」、「教師という仕事に憧れと誇りを持っている人」、そして、「自分の心に響き、多くの人の心に響く教育研究を通して、自らを高め、一人も見捨てない教育・社会を実現する」という目標に対する同志の人であらねばなりません。 そんな人をそれだけ集められる力は私にはありません。すみません。