ゼミ

 私は、『研究は、自分で考え、本を読み、人と語る、この3つで成り立つものだよ。一つでも欠けると研究は出来ないよ。』と、院生さん・学生さんに話します。でも、これって全てに通じますよね。忙しさの中で、自分で考えず、言われるままにやっていないだろうか?忙しさの中で、本を読まず、自分の既に持っているもので何とかしようとしてはいないか?忙しさの中で、人と語らうことを煩雑と感じ、本当に考えていることを人に語ることを避け、当たり障りのない話題に終始してはいないか?これは、他ならない自分自身への自戒です。

 ゼミとは「自分の心に響き、多くの人の心に響く教育研究を通して、自らを高め、教育を改善しよう」という目標を実現するために必須の「人と語る」場です。

 そこでの、ゼミの目標とは「人と語ることを通して、人から吸収し、人に与える」ことです。おそらく、ゼミで黙っているだけでも、多くを吸収することが出来ます。しかし、「人に与える」ことが出来ません。吸収するだけでは、人間関係は成り立ちません。また、「人から吸収する」と「人に与える」を分離して考えるのは我々の考え方ではありません。与えること自体が、吸収することに他なりません。従って、黙っているだけではなく、語ることが最低条件です。

 何を語るか悩むことでしょう。でも、それほど難しいことではありません。分からないことを「分かりません」と言うことも「語る」ことです。「きっと、みんなにとっては当たり前なんだよな~」と考えて遠慮する必要はありません。何故なら、我々の研究は関係者以外の人に分かってもらわなければなりません。だから、「当たり前」と思いこんでいる我々に、「分からない」と教えてくれることは大事なことです。

 「語る」ということは、ゼミの全員が黙っている状態で一人で「演説」するのみに限りません。誰かが喋っている時に、隣の人に、「あれって何言っているの?」、「あれおかしいよね~」と小声で語ることも含まれます。そのような語りを我々はローカルな会話と考え、高く評価しています。決して、ダメなこととは考えません。ただし、他のメンバーに迷惑だと思えるような行為はだめですよね。そうならないように、ローカルな会話をしつつ、全体の会話にも耳を傾け、自己モニターしましょう。そして、ローカルな会話をローカルな会話で終わらせるのではなく、ローカルな会話で解決できない疑問、一致した意見等は全体の話題にするようにしましょう。

 メンバー全体が有能な存在であることを信じましょう。もし、語らない人がいた場合、その人が考えている知恵を吸収しないのは、もったいないことです。もし、そのような知恵を欲していない場合、「自分の心の中では、メンバーを有能な存在だと考えていないのではないか」と自問自答してください。

 何をすべきか、何をすべきでないかは「人と語ることを通して、人から吸収し、人に与える」ことに照らして、自らを省みて下さい。

 全体ゼミは、学部学生・大学院生が一同に会するゼミです。全体ゼミの機能は3つです。第一に、メンバー全員の「個人課題」をみんなで解決することです。『学び合い』の考え方である「多様なメンバーと折り合いをつけ自らの課題を解決すること」と同じです。各人が抱えている課題を、みんなで解決することが必要です。滅私奉公では続きません。ただし、「おりあい」をつけてです。

 第二は、全員共有すること。一人で問題を抱えてしまうと、負のスパイラルに陥ります。問題がどんどの大きくなると、重大すぎて言えなくなる場合もあります。これを避けるためには、常に、問題を共有しつつけることです。

 第三は、ゼミの運営に対して議論し、合意することです。西川研究室のよう人数も多くメンバーも多様であれば、合意形成は必須です。 以上のことから、全体ゼミは万難を排して出席して下さい。基本的に全体ゼミのある日時は、支援等は入れないようになっています。よほどことがない限り、突発的な支援要請を断っても出席して下さい。

 個人ゼミは、全体ゼミでは議論できないジャンルのこともあります。ここではそれを議論します。

 以上の全体ゼミや個人ゼミは大事ですが、それだけではたりません。西川研究室の活動が広範囲、多方面になれば、色々なことを意識しなければなりません。互いに理解し、協力を得るためには膨大な時間が必要です。上記では絶対に無理です。日頃から研究室にいる時間を設け、いっぱい雑談して下さい。物理的に離れているならば、インターネットを活用して下さい。特に、インターネットの活用の場合は、面と向かったコミュニケーションを併用しないと、ちょっとした行き違いで感情的になる危険性は理解して下さいね。


学会活動

 先に述べたように、我々のゼミでは学術を一つの柱としています。そのため、学修の成果は学会誌の投稿論文の形式にまとめることを求めます。そして一定レベルに達したと判断したものは実際に投稿します。投稿論文形式にまとめることは修士2年および学部4年の全員に求めます。ただし、個人で一つ以上ということではなく、協同論文も可とします。

 これらのことを実現するには、修士2年や学部4年になって突然出来るわけではありません。節目節目にその成果をまとめ、第三者からのコメントを受け、省察をする必要があります。それが学会発表です。

 そのため、夏の学校教育学会、秋の教科教育学会、冬の臨床教科教育学会の発表を修士2年の学生に課します。臨床教科教育学会に関しては学部4年の学生も課します。そして発表しないゼミ生も先輩の発表を見学することを求めます。

 ただし、上記以外の学年も可能であるならば出来るだけ発表することを勧めます。教員採用試験がある修士2年は夏の学会発表は必ずしも課しません。また、夏の学会の場合、フォーラムと重なる場合は、フォーラムを優先します。その他、日程の関係で学会発表が出来ない場合、それに対応する別な発表の機会を設けてください。その場合は、学会ではなく実践の会でも結構です。

 学会発表というとびびるかもしれませんが、一度参加すれば分かります。我がゼミのレベルの高さが。だから、普段のゼミ活動をしているならば、学会発表は十分に可能で、それの蓄積は自然と学会論文のレベルに達します。学会発表は地区大会、そして学会誌は全国大会と思ってください。

 部活でも先輩の試合に後輩も一緒になって行きますよね。あれと同じです。みんなで旅行してわいわいやって先輩の発表のレベルを他と比較する。楽しいゼミ旅行になりますよ。

 発表の申し込み、原稿のとりまとめ、宿泊地の予約はゼミで一括して行ってください。連携するゼミと連携してください。なお、発表申し込みの際、日時統一をすることによって宿泊日時を短縮することも可能です。また、各種の割引制度を利用すれば旅費を軽減することが可能です。これに関するノウハウはゼミの中で蓄積してください。


教員採用試験

 学部学生へのサポートは「西川研究室が成立するために満たすべき実績」で述べたように、「教員養成の実績」および「教員再教育の実績」に重要な意味を持っています。しかし、未整備の状態です。ゼミ、皆様のアイディアで充実して欲しいと思います。

 教育実習の準備)教育実習の準備で教材研究をする際、ゼミの間で情報交換を活発にして下さい。

 教育実習)教育実習期間、公開授業を行う場合、ゼミの掲示板に掲示して下さい。院生さんは、出来るだけ手分けをして、それらを参観し、コメントして下さい。

 教員採用試験)教員採用試験の勉強はゼミ室でやることを勧めます。少なくとも下宿で一人でやるよりは持続することは保証できます。受験対策(特に面接)の情報交換をゼミメンバー間で積極的に行って下さい。


『学び合い』を広げる

 現在、週末ごとに日本のどこかで『学び合い』の会が開かれています。機会を設けて、積極的に参加し議論してください。そして、機会を設けて発表してください。これに関しては新潟のフォーラム、越後の会は絶対参加ですが、その他の会に関しては、その年度ごとに皆さんと決めたいと思います。

 また、地元上越地方で我々の活動を理解してもらうためには、地道な活動が必要です。学校支援はもちろん、地元の先生を対象とした会の運営・企画を積極的に行って下さい。


短期研修

 我々の考えを理解するもっとも善い方法は、研究室に所属し、2年間、「期待しているよ」の拷問に耐え、私を踏みつけるようにして、もっと高い境地に達するに勝る方法はありません。でも、全ての人がそれが可能というわけではありません。本を読み、メールで疑問をぶつけ、私と議論するというのもがもっとも現実的な方法の一つです。でも、その方法よりいい方法、でも、ちょっと大変な方法があります。それは、うちの研究室に二泊三日(出来れば、三泊四日)泊まり込みで来ることです。

 その期間、私は「延々」と語るつもりはありません。では、それだけの時間をかけて何をするかといえば、院生さん・学生さんとふれあって欲しいと思います。そのことによって得るものは何か?

 第一に、我々が本や学術論文で示しているものが、本当であることが分かります。

 第二に、ゼミ生の現職院生さんが語る言葉を通じて、学者のたわごとではなく、実践に本当に意味を持つことが分かります。

 第三に、我々の本で「○○である」とか「○○となった」とさらりと書いている言葉の背景に、どのようなデータの厚みと、学術的な手法があるかが分かります。

 第四に、雰囲気が分かります。これはちょっと説明がいります。我々が主張していることを本当に理解しているためには、学習者観・授業観・学校教育観が理解してもらわなければなりません。それらは「子ども達は有能である」という言葉に凝縮されますが、その言葉の意味を分かるためには、それを実践している我々のゼミの雰囲気を「感じて」もらうことが手っ取り早いと思います。

 以上の意義を理解して、ぜひ我々自身を自慢してください。そして、我々の姿を通して、我々が目指している教育の姿を伝えてください。逆に言えば、それが出来るだけの我々であるかを考える機会にして欲しいと思います。

 短期研修の方の宿泊場所は基本的にはホテルです。しかし、学生さんのグループの場合上越市のセミナーハウス(http://www.city.joetsu.niigata.jp/sisetu/syukai/seminar.html)も可能性があります。また、比較的長期の場合、学生宿舎を借りることも可能です。飲み会の場所としては岩木の公民館を活用できます。


卒業・修了後

 教師において「生涯一教師」というのは、一つの理想です。しかし、我が国において、それを実現することは容易いことです。何故かといえば、我が国の給与体系から言えば、管理職と教諭の給与の差は程度の差に過ぎません。管理職の権限も、絶大というわけではありません。もし、教師としての日々の実践で喜びを感じられるならば、実は、それほど高邁な理想を持たずとも自然に「生涯一教師」ということを望めるはずです。少なくとも、教諭より教頭でいる方が、ずっと辛いと思います。

 それでは管理職になる人は、どんな人でしょう。一つ目は、教師としての喜びを感じることに限界を感じ、あらたな道を選ぶ人でしょう。二つ目は、周りからの圧力に抗しきれず、あらたな道を選ぶ人でしょう。でも、一つ目と二つ目の差はあまりないのかもしれません。少なくとも三つ目の人に比べれば・・・

 三つ目の人とは、教師としての人生に満足して、管理職を望んでいません。しかし、教師としての生活の中で現在のシステムの問題点を感じ、かつ、その原因を冷静に分析できる人です。その結果、「○○のところを○○にすれば改善できる」という代案が出せる人です。そのような人の場合、周りから管理職を求められた時、決してしっぽを振りません。求められれば、求めた人に対して、条件闘争が出来ます。つまり、これこれのことが成り立つならばなりましょう、と言えます。その交渉の場に、どのレベルの人が出てくるか、また、どのレベルの条件が議論されるかは、その人の力量に比例します。

 非常に失礼ながら、「生涯一教師」という理想を「見切りました」。「生涯一教師」を願う人は教諭としての人生に満足しているのでしょう。しかし、自分のクラスのレベルにしか視野が行かない、別な言い方で言えば、自分のクラスの子どもの要求をクラスレベル以上に伸ばすことが出来ないことを示すものであると思います。仮に、クラスレベル以上の意識を持っても、それをどのようにしていいか、それを分析する能力がない。そのような先生なのかも知れません。

 生涯一教師は教師の最終的な理想ではないと思います。自分の目の前にいるクラスの子どもを救うためには、クラスのレベルでは解決し切れません。また、自分の目の前にいる若い仲間を救うには学校を変えなければなりません。それが分かった後、管理職(もっと言えば社会)に対する悪口に終わらせ、自己憐憫に陥るのではなく、改善の方法を考えるべきなのでしょう。その改善を実行するためには、「生涯一教師」では出来ません。

 生涯一教師とは「無能」であるか、「エゴイスト」であるか、「無能でエゴイスト」であるかのいずれかのように思います。ちなみに、私は少なくとも「エゴイスト」であると自覚しています。

 一般に、名選手必ずしも名コーチではないと言われます。しかし、名教師必ず名管理職だと私は思います。なぜなら、我々の考える教師はクラス集団における管理職であると考えているからです。

 私は「子どもと教師との関係は、教師と校長の関係に似ている」と考えています。従って、「教師として有能であるが校長としては無能」、「教師として無能であるが校長としては有能」ということは基本的に無いと考えています。従って、もし、「教師として有能であり、校長としても有能である」教師が管理職になりたがらないと、「教師として無能であり、校長として無能な」教師が管理職になることになります。とすると「生涯一教師」を目指す素晴らしい教師が、実は教師を虐げている無能な管理職の共犯なのかも知れません。

 私のように、「管理職は素晴らしい方ばかりだ」と思う人は、自分は管理職にならなくても良いのかも知れません。しかし、「管理職は無能だ」と嘆くならば、自分自身が「有能な教師」になり、「有能な管理職」を目指すべきと思います。

 ただし、管理職になることだけが道とは限りません。また、若い学生さんの場合、管理職は遠い先である場合もあるでしょう。

 より多くの現場の先生方に我々の研究を知っていただくために、私および西川研究室は「講演会・研修会における講演」、「教師用図書の刊行」、「教師用雑誌への寄稿」を行っています。

 皆さんが「多くの人の心に響く教育研究」を行っていただければ、上記の活動は私が主に行います。皆さんが現場において、上記を必要とする場合、万難を排して協力します。

 私は全国各地に講演会のため出張します。数百人の人の前で話すこともありますし、校内研修のために数十人の人の前で話すこともあります。人数の違いはあっても、私にとっては、同じように大事な機会だと捉えています。

 数百人の前で話したとして、いったいどれだけの人の心に響かせることが出来るだろうか、と考えることがあります。私はせいぜい5、6人、まあ、数人だと考えています。不遜ながら、飽きさせるような講演はしません。おそらく、大多数の人に、それなりに心に響かせることは出来ていると思います。でも、講演の次の日にまで影響を与え、我々の本を買って読んでみようとする先生、また、実践してみようとする先生は、それほどいないと思います。決して、日本の先生方が怠惰だとか、勉強不足だとかとは思いません。だって、講演会に参加しようとする先生なんですから、意識は高いに決まっています。でも、我々が求めているのは、小手先のテクニックを変えることを求めているのではなく、学習者観・授業観・学校観を変えることを求めています。これは大変です。講演会に来られるような先生であれば、毎日の授業を、大過なくこなすことが出来るような先生でしょう。だから、居心地の良い今の状態を捨てることを求めて、「はい分かりました」なんて変えられる人が多いわけありません。でも、数百人の人の前で話して、心に響かせることが出来る人が数人だとしても、私は意味があると思います。だって、一人の教師が変われば、その教師が生涯に教えるであろう数千人の人に、少なくとも心地よい1年間を与えることが出来ます。これは凄いことです。一方、校内研修のために十数人の人の前で話すことが出来れば、質疑応答も出来るかも知れません、そしたら数人の心に響かせることが出来るかも知れません。であれば、数百人の人に語ると同じ意味を持つことも出来ます。少なくとも、数百人の講演会でも、十数人の講演会でも、私を講演会に呼んでくれた人の心には響かせたいと願っています。

 以前、OBから以下のメールが来ました。

 『西川先生、○○です。相変わらずの忙しさのようで,さすが西川先生と思っております。さて、私が西川研究室の伝道師になってしまった1日を報告します。この前、附属中でレポートを持ち寄り討論をする会があり、1分科会約10名程を前にし、各自発表討論をしました。そこで「3年間分のじゃれあい」を質的と量的にまとめ主事を前に質的な部分だけのプレゼンを作りこういうレポートが現場でどう受けるのかを知りたく発表した次第です。それまでにかなり異端な発言をしていた関係で、やりづらかったのは確かです。「授業中何もせず、ただ子どもの声を聞いているだけの教師」という私の語りによって、会が盛り上がりました。引用文献に西川先生の本を書いておいたからか附属中の先生が「私語」の本(静かに!を言わない授業)を取りだし附属ではこのような授業ができないと嘆きました。ついでに○○県でまだ講演をしたことがないと西川先生を売り込んでもきましたよ。現場でじゃれあうような授業を望んでいる若い先生方が多くいることがよくわかりました。会が終わってもいろんな先生方から声をかけられ普段の授業を見せて欲しいという要望もあったりとこのような授業が求められているんだという実感もわきました。

 若い先生方が、先輩であり同僚の教師からあまりこのようなことを学ぶ機会がないことの発言がありました。司会の先生(私より上ですね)も「私語」の本を購入していたんですよ。つまり、どんな教師も学び合う教室を求めていることは、確かなようです。また、大学での知見(現在の学習論)との接点を求めていることもわかりました。「これから1年2年ではできないとしても5年後変わっている自分になる」といい、自ら授業改善のための本当の研究をしたいと語る若い先生も現れました。そろそろ上越教育大学の出番ではないでしょうか。もう少しうまくPRしていただければ、このような若い先生方を救うことができると思うのですが。いかがなものでしょうか。長く書きました。』

 私の返信は「ありがとう同志!」です。このOBは意識されているかどうかはわかりませんが、このような活動は、私が数百人の前で語る以上に影響力のある活動です。だって、語った後に、普段の授業を見せられる迫力付きなんですから!必ずしも、講演会、研究会の場ばかりではありません。実は、自分の職場で一人の同僚を変えられるとしたら、私以上に意味あることです。だって、私が恐れている「信頼と放任の取り違え」の危険性が少なく伝えることが出来るのですから。先に述べたように、一人の教師を変えることは、とてもとても大事なことです。

 さらに、人様にだけに意味があるのではなく、自分にとって意味があります。自分の前にいる子どもたちの活動が自分のクラスだけで収まっているわけありません。子どもたちが本当に主体的になるならば、活動はどんどん拡大します。そうなったとき、同じ学年の同僚、学校の同僚、校長・教頭、父母、地域社会の人たちに理解を求めなければなりません。その第一歩が、一人の同僚の心に響かせることだと思います。

 教員養成系大学で25年も教えていると、教え子の中には新卒教員もいれば県教育行政のトップもいます。どの人も、「何も出来ない」と言われます。トップでさえも。でも、どの職階でも出来ないこともありますが、出来ることもあります。どちらに目を向けるかだと思います。

 トップは重要な決定を出来るが、汗を流してくれる人がいなければ、絵に描いた餅になります。だから、決定せずに、現状のみんなが動くレベルに毛を二本付け加えた程度の決定しかできません。こんな巨大な組織を変えることなんて自分一人で出来ない、と思う人が多いのではないでしょうか?

 末端教師は、毎日、毎日、実践しています。ところが動きづらい仕組みの中で藻掻いています。そして、こんな巨大な組織を変えることなんて自分一人で出来ない、と思う人が多いのではないでしょうか?

 そう、教育は教師だけで100万人で、それに直接利害を持つ職業に就いている人は数百万人おり、当事者・保護者を含めれば日本人の殆どが含まれる超巨大な組織です。だから自分一人で変えられるわけありません。それは県教育行政のトップも、末端教師も同じ。でも、みんなだったら出来ます。

 自分が新採教員であるときから、異なった年代・職階の人とつながり、自分の思いを伝えあえたら。自分が主任になったとき、自分が教頭になったとき、自分が校長になったとき、自分が行政に出たとき、そして自分が教育長になったとき。そういう人が、職階に関わりなく、「変える」力を持つのです。